高校時代は、「感覚」を使っていた気がする。
実際、倫理も「なんとなくこんな思想」で覚えていたし、現国も、センターなんかは、何となく選択肢が浮かび上がってみえたものだった。
一時期やっていた東大国語はさすがに論理性が求められたが、それも「なんとなく相手の言いたいポイントを見つけて、それを文章中から抜き出して繋げる」という、直観を元にした解き方をしていました。
だから、今でも、現代国語の解き方を他人に教えることはできませんし、倫理も、あれほどハマっていた割には、いざ他人に説明しようとするとうまく説明できなかったりします。
(倫理の場合は、イギリス経験論VS大陸合理論とか流れで覚えてる部分もあったから、その部分は説明できますが)
しかし、大学の勉強においては、それが通用しない。
まず、概念が難しすぎて、それを「感覚的に理解する」(要するにこれはこういう事、と自分の言葉に落としこむ)ところまでなかなかいかない。
第二に、覚える範囲が広すぎて、知識同士を構造化することが困難である事。そして、そんな中での「必要最低限だけ覚える」という技法は、ここでは通用しないのです。
そう言えば、高校の頃、画期的な(とその頃の自分は思っていた)古文の読み方を発見したことがありました。
私は当時、古文の「助詞」「助動詞」がうまく訳せずに(今考えると“ニュアンスが理解できなかった”のだろうと思われます)、成績が全然上がらない時期がありました。
ところがある時、
「助詞(助動詞)1つについて、最も使う訳を1つ決めておいて、機械的にその翻訳に移して読んでいこう」
というのをやってから、格段に古文が「読める」ようになったのです。
大学に入ってから、自分が勉強ができないのをずっと悩んでいましたが、そのヒントが最近見つかりつつあります。
今日書いた文章の中にも、既にそのヒントが隠されています。
「概論や目次を読んで、その疾患が全体の中でどういう位置づけにあるのか、或いはどんな特徴があり、どのような流れで定義された疾患なのか、を頭に入れる。」
「そして、構造化した中で、その疾患に特徴的なものだけとりあえず覚える。そして“この疾患はこんなもんだ”という感覚を養う」
多分、この2つだけでも結構変わると思います。
これからの国試、そして卒業後を考えると、このまま何もせずに嘆いている暇はありません。
人と違うということは、裏をかえせばその分アドバンテージがあるということです。
自分にあった勉強法をはやく見つけて、自分の力を適切に伸ばしてやりたいもんですNe!( ^ω^)
ニックネーム ぶらっくべりー at 23:57|
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日記
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